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文京区関口・目白坂界隈ゆかりの文学者、文学

円地文子
『源氏物語』の現代語訳や代表作『ひもじい月日』や『女坂』で有名な円地文子は昭和40年代に文京区関口に仕事場をもっていました。当時を振り返った彼女のエッセイにこんなくだりが:「その代り源氏を訳している間は他の長い仕事は引き受けないことにした。初めは二年ぐらいででき上るような気でいたし、出版社でもそう思っていたらしいが、手をつけてみるととても二年やそこらでやりきれるものではなかった。新潮社でもこの仕事を大切にしてくれて、文京区関口の坂を上った上の左側の横町にある目白台アパートに「源氏」のための部屋を借りてくれた。」この目白台アパートは現在の目白台ハウスと言われています。

大町桂月
詩人・随筆家・評論家として知られる大町桂月は明治42年頃目白台3丁目付近に住んでいました。『文芸倶楽部』『太陽』などに随筆を書き美文家として知られ、韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であったといわれます。 大雪山系の黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山があります。与謝野晶子と彼女の『きみ死にたまうことなかれ』について公開抗議状をやりとりしたことで戦後彼の評価が下がったといわれていますが、実は二人はとても仲が良い友人同士だったとも伝えられています。

窪田空穂
歌人、国文学者として知られる窪田空穂は早稲田大学で教鞭を取り始めてから以後、晩年まで目白台三丁目のあたりに住んでいたといわれています。この地にゆかりの作品はないようですが(あるかもしれませんが、未確認です)、古今和歌集や万葉集の研究で名高い窪田空穂がこの地に晩年まで住み続けたのにはそれなりの理由があるのでしょう。

佐藤春夫
今はもう和歌山県新宮市に移築されていますが、椿山荘のはす向かいに1989年まで小説家であり詩人でもあった佐藤春夫の邸宅がありました。佐藤春夫は1892年(明治25年)4月、和歌山県新宮市に生まれ、慶應大学に進んで当時教授だった永井荷風に師事しました。代表作に『病める薔薇』『釈迦堂物語』『玉を抱いて泣く』『田園の憂鬱』『厭世家の誕生日』など多数ある他、詩人としていろいろな曲に詞をつけています。文京区の区歌も佐藤春夫の作です。谷崎潤一郎の妻との不倫事件も有名です。

瀬戸内晴美
円地文子同様、『源氏物語』の現代語訳の関係で文京区関口に仕事場をもっていたといわれています。場所も同じ目白台ハウスと言われ、一説にはまだ仕事場として使っていらっしゃるともいわれます。1973年に中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とし、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に住んでいます。麻薬で逮捕された俳優の更生に尽くしたことや、徳島ラジオ商殺し事件の再審支援などの活動でも有名です。

都筑道夫
『やぶにらみの時計』や『三重露出』などの作品で知られる推理小説家都筑道夫は文京区関口生まれで関口台町小学校の卒業生です。彼の作品のひとつ『首くくりの木』のくだりにこんなのがあります:「石段はくねくね曲がりながら、川に沿った公園を見おろして、高台へのぼっていた。石組には草がしげり、常緑樹が葉むらの傘をひろげている 。おれは老人のあとにしたがいながら、「この上はなんなんです?」 「いまは高級マンションなんぞが、建ちならんでいますよ。以前はまうえが目白不動、石段をのぼりきったところが関口台町小学校。小学校は今でもあるけど、お不動さまは面影橋のほうへ、引っ越してしまった。小学校は焼けなかったが、お不動さまのお堂は空襲で、灰になってしまったからね。ああ、ここだ。この木。これですよ。」まるで今の江戸川公園そのままでホントにビックリです。

松尾芭蕉
寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市で生まれた江戸時代前期の俳諧師で、蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれた俳諧のスーパースターです。関口芭蕉庵が今も椿山荘の裏手に残っていますが、芭蕉がここに住んでいたのは1677年からの3年間のみだったといわれています。この建物は当時は龍隠庵といわれていましたが、芭蕉をしのぶ人々によって関口芭蕉庵と呼ばれるようになりました。また、当時の建物は戦災で焼け、いま建っているものは戦後修築されたものです。

村上春樹
『ノルウェイの森』『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』などの代表作で知られ、最近ではエルサレム賞を受けに行って公然とイスラエルを批判した村上春樹氏。彼は早稲田大学に通っていた頃、目白台の和敬塾に寄宿していました。彼の作品『蛍』にこういうくだりがあります:「寮は見晴しの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は百五十年、あるいはもっと経っているかもしれない。根元に立って上を見あげると、空はその緑の枝にすっぼりと覆い隠されてしまう。」今もまだ緑濃い関口から目白台の風景を述べているようで、とてもいいですね。

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