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目白坂の環境と歴史: なぜ「目白」なのか
(上記古地図:護国寺周辺の嘉永年間の古地図。右に拡大の通り、目白坂の入り口付近にある正八幡神社と養国寺、永泉寺、大泉寺の3寺院はすでにこの地にありました。)
文京区関口は文京区の南西部、新宿区と接する辺りの目白台地に広がる閑静な住宅地で、江戸時代には大名の別邸や旗本の屋敷が連なる地域でした。この丘陵は、江戸を代表する遊山の地に数えられ、今でも山県有朋の別邸であった椿山荘、緑美しい日本式庭園の新江戸川公園、俳人松尾芭蕉の住み処と伝えられる関口芭蕉庵などの史跡が残り、今も歴史の面影が見受けられます。
この辺りの地名にもなっている「目白坂」「目白台」「目白(豊島区)」は東京の五色不動の一つで三代将軍徳川家光に命名されたという「目白不動」に由来するものであり、まさに計画地の裏手に戦災でやける(昭和20年5月25日)まで存在しており、本件で問題になっている目白坂は目白不動様への参道の一部であったのです。ちなみに本尊の不動明王は弘法大師作と伝えられ、高さ25センチほどの断臂不動明王といい秘仏とされています。断臂不動明王は弘法大師が唐から帰国の後、羽州湯殿山というところに参籠した時、大日如来が忽然と不動明王の姿となり、「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為のえ火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」といわれたので、大師はその姿を二体刻んだということです。その一体はその場所に安置し、もう一体は大師自ら護持されたといいます。その後、上野国足利(現在の群馬県足利市)沙門某という人の手を経て、武蔵国関口(当地)の松村氏という人が本尊を足利から移し、地主から土地の寄進を受け、一宇を建立したということです。
その後、二代将軍徳川秀忠及び家光二代の保護、桂昌院の保護、帰依を受け、目黒、目赤、目黄不動尊が武蔵野との接点にあるのにたいして、目白不動尊は江戸市中に近い関口にあったことで徳川家との所縁の深さが思われます。関口は江戸の上水の口元で、神田上水「大洗堰」があって、幕府江戸城の水の手として最重要な場所でもありました。同時に、風光明媚なところで、続江戸砂子には『椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』とあり、遊山の地でもありました(椿山荘とその周辺)。五代将軍綱吉以降は護国寺(天和元年=1681創建)への江戸城外からの直線の参道である音羽通りを少し入った所に位置することから、桂昌院の保護をうけて、さらに名を高めたと伝えられています。
文京区の都市マスタープランでも、歴史的建築物と樹林が歴史文化を育んできたことを評価し、関口2丁目・3丁目地域について、「目白通りの沿道は、大規模な敷地を有する低層の施設や街路樹のイチョウ並木により、緑の濃い良好な景観が形成されており、今後とも維持・保全を図る。目白台一丁目、関口二・三丁目の第一種低層住居専用地域に指定されている区域は、低層住宅市街地としての環境保全に配慮しながら、土地利用の誘導を進める。」とされています。